以外にも深い歴史を持つ日本の牛乳

 筆者も以前から「牛乳の日本史(日本に導入時期や古代の人々に飲まれていた頻度など)」に興味があったので、今回は牛乳の歴史について、書いてゆきたいと思っています。
出鼻から「牛乳の日本史を語る」とか偉そうで大それたことを書いた自分ですが、実はつい最近まで〜牛乳の歴史を調べ始める前まで〜、「日本人に牛乳が飲まれ始めたのは明治・大正時代からであり、江戸時代から以前の人達は全く牛乳という飲み物を知らずに、絶対飲まなかったに違いない」という勝手に変な固定概念を持っていたのですから、お恥ずかしい限りでございます。何故そういう固定していた考えを持っていたかというと、ただ単純に明治時代から、日本人が、西洋食文化に傾倒し牛乳を飲み始めたのであろう、としか思っていなかったのです。
 そういう意味では、今回の(自分なりに)、牛乳の日本史を掘り下げてみるという穴掘り作業は、筆者自身の妙としか言いようのない概念という壁を根本的に壊すことができた上、その障害物の向こうに隠されていた反対側には、新たな小さな知識という種子の発見の連続でした。その小さな知識を得られる度に、嬉しかったです。
集めた知識を、筆者なりに、今回の畑(今回の記事)に播種してゆきたいと思っています。立派な物ができるように頑張ります。

 

 乳牛の歴史関連の書籍を紐解いてみても、日本国内で、本格的に乳牛が海外から導入され乳製品が、日本人に親しまれ始めたのはやはり、明治時代からである事は間違いないようです。その証拠として、明治政府で酪農が奨励され、ホルスタイン種・ジャージー種と言った多種の乳牛の導入および殆どの牧草品種輸入は、明治時代全域に渡って行われ、都会の巷には牛乳屋や氷菓子屋(アイスクリーム)が軒を連ねました。逆に大正末期には、国内に牛乳が余り過ぎてしまい、奈良県橿原市あるホテルが発案した「牛乳鍋」を出汁替わりに使用することや、また「走れメロス」で有名な文豪・太宰治の実父は、『父は牛乳で顔を洗っていた(太宰の回想)』という逸話もあるくらいです。

 

 牛乳が日本庶民の間で、本格的に利用されるようになったのは、前記の通り明治時代からですが、国内で「最初に」牛乳が利用されたのは、古墳後期時代(西暦6世紀後半)であり、仏教が伝来した西暦500年代になります。しかし当時の庶民には普及せず、主に天皇家・貴族と言った上流階級の間にしか利用されませんでした。
 大伴 狭手彦(おおとも さてひこ 当時の豪族・生没年不詳)という人物が西暦560年に、朝鮮半島(当時の国名:百済)に遠征した際、孫智聡(そんちそう)という人物と出会い、日本へ連れ帰りました。この孫智聡という人物こそ、本邦初の牛乳についての知識・乳牛飼育方法、搾乳技術を伝えた人物です。他にも、多数の書物経典・仏像、仮面劇(伎楽)などの大陸芸術文化を伝えた優れた文化人でもあったようです。

 

 智聡の子である善那(ぜんな)という人物が日本牛乳古代史のパイオニアというべき人物で、当時の天皇・孝徳帝(在位:644〜654)に牛乳を薬(強壮剤)として献上し、喜ばれたのを皮切りに、更に朝廷内で乳製品の普及に務めたので、天皇家の信頼を得て、薬を管理する医者の和薬使主(やまとくすしのおみ)という大仰な姓と、後に日本名として福常という名前も賜っています。
 福常(善那)は更に出世し、現在の厚生労働省に相当する典薬寮の役職の一つ・乳長上(ちちのおきのかみ)という、これまた大層な名前の役職に任命され、福常の子孫(和薬氏)は、代々この役職を受け継ぎ、牛乳生産事業に勤しむことになりました。乳長上という役職は、役名と福常の活躍から察するに、「乳戸(酪農家)を管理、牛乳を調達して、乳製品を製造し天皇家に献上する」のを任務とした役目と思われます。

昔は、牛乳も税金の一つ

 時代が下るに連れて天皇家(朝廷)の中で牛乳の存在が更に重くなり遂には、『牛乳は貢物(税金の一種)となり、各地方には、献上を義務付けられる様にました。
史料の中には西暦710年には山背国(後に山城国・現在の京都府南部)に乳牛戸(乳戸に加えて増設された官営酪農牧場)50戸があり、乳牛を飼育、牛乳を搾り天皇家に献上させている記録が残っていたり、摂津国味原(現在の大阪市四天王寺付近)にも牛牧(牛の放牧場)があり、そこで飼育されている乳牛を当番制で連れて来て、牛乳を搾って天皇に献上したという事も記されています。
西暦8世紀頃には酪農牧場が存在して、牛乳を搾っていたという史実の深さには感慨深い物があります

 

 牛乳が一種の税金として天皇家に献上を義務付けられる事に拠って、各地にある酪農牧場から献上された牛乳を管轄して、天皇家に差し出す機関として、乳牛院が京都右近馬場(現在の京都府・北野天満宮付近)に設立されました。乳牛院は、天皇家直属の典薬寮(厚生労働省)管轄機関の一つです。乳長上(乳師)という専門職として、乳牛の管理・牛乳の生産の管理全般の一旦を担ったのが、前記の福常(善那)の子孫です。余談ですが、彼らの役職(乳長上)は終身職とされてきましたが、西暦820年に終身職は改正され、6年毎の交代職とされるようになりました。

 

 皆様ご存知の様に牛乳は生鮮食品ですので、常温だと保管が長くできません。税として納められた牛乳が腐敗してしまったら、天皇家ではたまったものではありません。特に運搬技術や冷蔵技術が乏しい古代ですと、余計に長期保存が困難です。しかし古代の人々は既にこの問題を解決済みで、西暦6世紀には牛乳を加工し保存期間を長くするという知識・技術を持っていたのです。そして牛乳は加工される事によって税として天皇家に献上されました。日本に初めて牛乳の飲用・利用法を伝えた前記の智聡が、同時に乳製品に加工する技術も伝えていたのです。
 筆者は先に、西暦8世紀には牧場が運営され牛乳を生産されていた事に感銘受けたことは、述べましたが、それと同時に当時の人々は乳製品加工技術も持っていたことには更なる感銘を受けました。そこで今度は、当時の加工乳製品について紹介してゆきたいと思います。皆様、褒め言葉などでお聞きなる『醍醐味』についても少し紹介したいと思います。

醍醐は加工乳製品

 先程、「西暦6世紀頃の日本には、既に牛乳が加工されていた技術があった」と述べましたが、それらの加工分類を紹介してゆきたいと思います。現在でも、チーズ・バター・クリーム・ヨーグルトなどの言った、それぞれに違う乳加工製品名がありますが、当時も現在ほど種類は多くないですが、分類・ランク別けされていたようです。

 

「涅槃経(ねはんきょう)」という仏教経典の第14には、牛乳が加工されてゆく過程とその各々の加工過程名(ランク)が記されてあります。以下の文章は、一般的に『五味相生の譬(たとえ)』と言われています。

 

 「牛より『』を出し、乳より『酪(ラク)』を出し、より『生酥(セイソ)』を出し、生酥より『熟酥(ジュクソ)』を出し、熟酥より『醍醐(ダイゴ)』を出すが如し、醍醐最上なり」 

 

生酥熟酥醍醐という牛乳の加工過程(ランク)の用語を使い、仏教への道(順序・過程)を、上記の文章の中で例えているのが解りますが、酪〜醍醐とはどの様な乳製品を指しているのか気になりますが、実は現在でもそれらの過程の違いが明確にはされておりません。しかし、全く判明していないという訳ではないので、判った範囲ではありますが、酪〜醍醐までの違いを紹介してゆきます。

 

とは:当時では牛粥(ギュウカユ)とも呼ばれていたようで、現在のヨーグルトといった分類だと言われています。古い史料を掻き合せてみると、「牛羊の乳を温めて縦横に撹拌した物を酪という」と書かれてあります。ヨーグルトは一見すると、お粥にも似ているので、牛粥とは云い得て妙ではないでしょうか。

 

生酥とは:生蘇(ソ)とも書かれます。現在の乳製品で例えるのなら、練乳に近いものと言われています。

 

熟酥とは:熟蘇とも書かれます。現在の乳製品に例えるなら、バターに近いものと言われています。この熟酥は、先に述べた天皇家に納める貢物と規定され、平安時代には、日本各地(関東〜四国・九州)から献納(貢酥)された記録が残っています。バターに近い固形物に加工したら、保存期間も長いですし、京都・奈良から遠く離れた関東や九州各地からの運搬も楽です。熟酥が固形物質であった証拠に、他の史料には、「今後、天皇家に酥を献納する際は、籠に入れてから献上せよ」という文献が残っており、他の史料には「酥を薬に入れる際は、微熱で溶かして洗浄してから用いると良い」とも書いてあるので、熟酥は、液体状ではなく、固形物であったことが判ります。

 

醍醐とは:牛乳・酪・酥に来て、最後にこの醍醐が来ます。生酥・熟酥を更に精錬させたのが、醍醐と言うわれ、古来より最上級の加工乳製品となります。どんな味覚であったのか少し筆者も気になりますが、史料によると『醍醐は酥を精錬した物で、粘りがあり、色は白雲の如きにて、味はとても甘味がある』と書かれ、また別の史料にも『醍醐は、色黄白にて餅状に作って、甚だ旨く(以下略)』と書かれており、各史料から絶賛されています。正に醍醐味です。
 この醍醐という言葉、先に仏教経典「涅槃経」の文を用いて、乳製品の過程・ランクを紹介しましたが、「涅槃経(自分)こそ最後で最高の経典、つまり醍醐であることを自賛する例え」として用いられたのが始まりです。つまり当初は、仏教用語として寺院内で利用され、やがて世間一般に広まり、最上・至上なものを例える言葉として『醍醐味』が使われるようになったのです。

 

 醍醐を現在の乳製品で例えると何でしょうか、餅状で甘味があるとか書かれていますので、些かこじ付けかもしれませんが、ミルクキャラメルのような物であったかもしれません。
現在では、甘みたっぷりのミルクキャラメルは手軽に買えますが、古代は勿論、明治時代中期まで国内の製糖法が未熟で、日本では砂糖(甘味)がとても貴重な物でした。明治維新の原動力の一つとなった薩摩藩(現:鹿児島県・奄美諸島など)は、半植民地化にしていた奄美・琉球(現:沖縄県)から収穫される砂糖キビを独占し、多大な利益を得ていたのは有名な話です。拠って、昔は醍醐のような甘味のある物は、とても貴重な物であったと思われます。
 最上級の醍醐は、天皇家に大いに好まれ、有名な聖徳太子を抜擢した、推古天皇(554〜628)は、美食家でもあり、醍醐を好んで食していたとも言われています。都近辺の寺院でも仏様への高級な供え物として利用されました。因みに京都にある国宝・醍醐寺は、真言宗醍醐派の寺院がある山を醍醐山と命名したのが始まりです。その寺院に縁が深い、醍醐天皇(885〜930)、その天皇を敬愛した南北朝争乱で有名な後醍醐天皇(1288〜1339)も京都の醍醐寺から由来していますが、更に源流を遡れば、五重塔で有名な国宝の寺院も天皇のお名前も、乳製品の最上級名である醍醐から由来していると考えると、乳製品の偉大さを感じてしまうことを禁じ得ません。

 

 以上が、古代の乳製品加工の過程などを紹介しました。古代、これ程、天皇家・貴族(朝廷)や寺院に愛された乳製品ですが、先にも少し述べましたが、上流階級の間でしか流通しなかったので、平安末期には、朝廷の権力が衰退することによって、乳牛の飼育や牛乳・加工乳製品の利用もまた次第に失われてゆきました。また朝廷に変わって権力を持ち始めた武士(源氏・平氏)などは、牧場で牛ではなく、合戦に使う軍馬を飼育するようになったので、武士の世界では、牛乳などの乳製品の利用はありませんでした。武家政権の小休止とも言うべき建武の新政を主導した、先述の後醍醐天皇は、その名に相応しく、京都で乳製品加工の拡大を再開したそうですが、結局政権が短命であったために乳製品加工の拡大事業も頓挫しました。そして乳牛・乳製品が、大々的に歴史の表舞台に再登場するのは江戸時代中期、そして明治時代まで待つことになります。

 

 日本の牛乳の歴史を調べてみると、新しい発見の連続であり、筆者としてもとても楽しかったです。史料・文献探しの中で見付けた、法学者の大家・瀧川政次郎氏(1897〜1992)の『日本社会経済史論考』(日光書院、1939年)はともても参考になりました。国立国会図書館のデジタルコレクションで閲読が可能ですので、もしご興味がある方はお読みになってみて下さい。もしまた機会があれば、今度は江戸・明治などの時代の乳牛・乳製品に関する事を紹介してみたいと思っています。