西洋(近代)馬術は優雅追求型

 西洋(近代)馬術の発展は古代ギリシアから始っており、騎士出身の名将・クセノポンが著した『馬術について』が世界最古の馬術書があり、クセノポンが馬術の始祖と位置付けられいます。
 後の18世紀のド・ラ・ゲリニエールという人物がクセノポン馬術を研究洗練し、近代馬術の基礎を築いたので「近代馬術の父」と呼ばれ、19世紀のドイツ馬術家・シュタインブレヒトという人物が考案した騎乗法や調教法が、現在の馬場馬術に使われる基礎となっており、20世紀初頭のイタリア騎兵将校・カプリリーという人物がが考案した騎乗法が、現在の障害飛越競技などの基礎となっています。
 西洋馬術は現在でも大いに発展しており、世界レベルではオリンピック競技・日本国内レベルでは大学対抗馬術競技などで見る事ができます。また、米国カウボーイ達の馬術・ウエスタン馬術も西洋馬術から生まれています。

(西洋馬術から派生した、ブリディシュ馬術の一例)

 


(同じく西洋馬術から派生した、ウエスタン馬術の一例)

 

 西洋馬術の基礎を築き、発展させたのは将軍・軍人などでしたが、近代に至って欧米王室や上流・富裕階級の男女に問わず官民階級の中で、紳士淑女の趣味の1つとして優雅に馬を乗りこなす近代乗馬が大いに流行り、それが更に美が追求・洗練され『西洋馬術は優雅追求型』へと発展していったのです。またイギリス・フランス・ドイツ・スペインといた欧米諸国全てが、馬の原産・名産地である上、馬術のメッカ大国であり、互い技術を切磋琢磨できるという馬術発展に関する地理的好条件に恐ろしいほど恵まれていたのも、西洋馬術発展の要因の1つにあると思います。

武道の1つであった日本伝統馬術

 日本伝統馬術は、武士(軍人)が創り上げた馬術であるという原点は西洋馬術と同じですが、両者騎乗目的・スタイルが全く違います。
 先ず、日本馬術は武士(一部では貴族もありましたが)という限られた身分階級のみに必要な技術(武術)であり、武士階級以外の商家・農家には馬術は流行しませんでした。この時点で、既に欧米諸国の官民で育まれた西洋馬術とは一線を隔てています。
 馬上戦闘原形スタイルも大きく違う点もあります。日本馬術・西洋馬術共に、古来より1騎対1騎の「一騎討ちスタイル」が尊重された点は同様ですが、西洋は、現在の馬上槍試合競技・ジョスト(馬上槍試合)などに見られるように、長槍対決スタイル主流であったのに対し、日本は伝統競技・流鏑馬に見られるように、騎射(弓馬)対決スタイルが主流でした。

(武士の必須技術であった弓馬・流鏑馬)

 

 
(西洋騎士の一騎打ちから生まれた競技・ジョスト・馬上槍試合)

 

 上記の両者間の戦闘スタイルの違いは鞍や鐙などの馬具にも如実に顕われています。西洋騎士は馬上で槍を振り回すため、騎乗状態で踏ん張りが利く様に、鞍や鐙の形は現代物とと大して変化がない輪型ですが、騎射を専らとする日本武士の鞍と鐙は全く違い独特な形をしています
 流鏑馬などを見たらわかりますが、騎手が馬上で弓矢を引く際は、腰を浮かせた前傾姿勢です。それを容易にするため、和式鐙の形は『舟形鐙』と言い、西洋式鐙に比べると走行中にでも騎手が立ち上がるのが容易になっています。また和式鞍の前部分(前輪と言いますが)の背丈が高くなっており、中腰状態の騎手が太腿を前輪に乗せて、中腰姿勢を維持できる構造になっています。つまり和式鞍は、騎手が座る目的の構造ではないのです。よって日本の武士は西洋騎士の様に鞍に腰を落ち着けて、両足で馬両腹を刺激して馬を動かすというという乗馬法に精通していなかったので、日本では拍車は未知の馬具でした。しかし、馬の両腹を蹴って速く動かすという方法を全く知らないという訳ではなかったようです。
 平安初期に編纂された「新撰字鏡」という漢和辞典の中で、『障泥(あお)る』という動詞が説明されています。障泥(あおり)というのは、乗馬の際に泥の汚れ等を防ぐ為に、鞍の下から馬の両腹にかけて垂らす皮製の馬具の事ですが、騎手が両足でその馬具を蹴る事によって馬をより速く動かせるというので、障泥るという言葉が派生したと紹介されいるので、武士を含める当時の日本人が馬腹を蹴って馬を走らせる方法を全く知らなかったという事ではなようです。余談ですが、現在でも自動車などの運転の時、加速する事を『あおる(煽る)』と言うわれますが、この乗馬から派生した障泥るを語源としています。

 

(馬の博物館所蔵)
(武士達が利用した和式鞍のレプリカ。舟形鐙が特徴的です。)

 

 日本伝統馬術は武士よって興ったので、武士最盛期(鎌倉・室町時代)と同時に伝統馬術の最盛期を迎え、この時期に現在でも伝統馬術として尊重されている流派(小笠原流・大坪流・武田流)が興っています。しかし室町後期・戦国時代になると、武士の合戦は、一騎打ちの騎馬戦スタイルから足軽(歩兵)や鉄砲軍団を用いる集団戦法スタイルに変貌していったので、徐々に伝統馬術は有名無実となってゆき、戦乱が終結し平和な江戸時代になると増々廃れていき、武士でも馬に上手く乗れないという実態になりました。これには江戸中期の武芸好き将軍・徳川吉宗も激怒し、馬術習得を家臣団に奨励したので、馬術が再復興する事になりますが、その後は再度、日本馬術は退廃してゆき、最終的に明治時代になり、新政府は武士階級が廃止し、軍備のため西洋馬術や西洋馬を導入し始めたので、日本伝統馬術は、祭事以外は巷から姿を消しました。

 

 西洋馬術は軍事から興り、その後は王室・貴族・庶民の官民の間で流行り親しまれつつ進歩を遂げ、結果現在でも世界の主流乗馬法になりましたが、対して日本伝統馬術は、武士が興し、その後も武士階級のみという狭い世界で共有され維持され続けたのみですので、流行・進歩せず衰退していったのが大きな原因だと思われます。この原因の根本に横たわっている要因として、大陸続きの西洋諸国に比べ、極東アジアの島国の日本には、外来種馬の導入が困難であり、木曽馬など古くから在来馬のみ存在し頭数も少ないので、自然乗馬ができる階級(将軍・大名や上流武士)が限定されていったという地理的環境条件があったという事が、現在にも至る日本伝統馬術衰退の根本的要因になった事は間違いないでしょう。

 

 筆者も乗馬を習う事が好きですが、特に日本伝統馬術に以前より強い憧れを抱いています。特に流鏑馬に至っては、誇りある日本独自の伝統芸術の1つであると強く思っています。今後も日本伝統馬術が滅ぶ事無く、日本に残り続けてゆく事を願うばかりであります。