馬の去勢の経緯

 生殖機能がある種牡馬の気性は激しいです。些細な事でも直ぐに興奮したりし、凄まじい場合は殆ど棹立ち状態になったりします。現在の日本の乗馬界では、優秀な種牡(雄)馬を繁殖用に残す場合は別として、馬の調教や管理を容易にするために、牡馬の生殖機能は除去・去勢する事が一般化になっていますが、昔は全く異なっていました。特に武士が政治権力を握っていた鎌倉〜江戸時代にかけては、彼らが乗る馬は皆、気性が真に激しい種牡馬ばかりであり、その暴れ馬を乗りこなしてこそ一人前の武士という事が、彼らの間で当然の様に思われていました。
 小説家・山岡荘八さんも自著「伊達政宗(歴史文庫)」内で、政宗本人の言として『名馬は悉く悍馬(気性が激しい馬)から生ず』という文を書いています。恐らく政宗本人が本当に言った言葉ではないでしょうが、当時の武士(大名)たちが気性が激しい馬を尊んでいた事を見事に表現した文であると思います。
 戦国時代の名将の1人・武田信玄の持ち馬の1つに黒雲という名馬がいたそうですが、とんでもない暴れ馬でもあり、信玄本人しか乗りこなせなかったと伝わっています。因みに巨匠・黒澤明監督の信玄の影武者の物語を描いた映画「影武者(東宝)」内で、信玄亡き後の影武者が調子に乗って、亡き信玄の愛馬(黒雲)に騎乗して落馬してしまい、信玄の側室や多数の家臣達に正体を暴露してしまったシーンがありましたが、黒澤監督も信玄の愛馬・黒雲の気性の激しさを映像を通して観賞者に伝えています。
 実際、歴史上で去勢されていない日本の馬を直接見た人物も中には存在し、その事を記録しています。当時の日本人は「馬は気性が激しい生物」というイメージが一般化となっていますので、何とも思っていなかったようですが、日本を訪れた外国人は、日本の馬の気性の激しさを目撃、あるいはその軽い被害者になった事を記録しています。
 戦国時代に宣教師として来日したルイス・フロイスです。日本史の卓越した観察者でもあるフロイスは、自著「日欧文化比較(ヨーロッパ文化と日本文化)」で馬に関する39項目の記述があり、その中の第2項で「彼ら(日本)の馬はひどく暴れる」と書いています。西洋馬術より調教が劣っている日本馬術の上、未去勢の馬だと気性が激しいかったのも無理はありません。
 時代が下った江戸幕末でも日本の馬の気性の激しさは相変わらずであったようで、プロセイン王国(現・ドイツ)の駐日公使・伯爵フリードリヒ・オイレンブルク(1815-1881)、日本への鉱山技術を導入した江戸幕府お雇い米国地質学者・ラファエル・パンペリー(1837〜1923)、トロイ遺跡を発掘した著名なドイツの考古学者・ハインリヒ・シュリーマン(1822〜1890)などの日本近代史にその名を遺す人物達も各々の自著中で、『日本の馬は小さく体格が悪く貧弱くせに,直ぐに蹴飛ばしたり,噛みついたり,振り落としたりするため,その粗暴さや悪癖に悩まされ続けた』と、日本馬の気性の悪さに異口同音に書き遺しています。

 

 以上の様に、昔より馬の去勢術を心得、その馬に慣れ親しんできた西洋の人々にとっては、日本の未去勢馬には驚きと戸惑いを隠しきれなかったようです。日本が漸く牡馬の去勢をするようになったのは、武士の世が終わった明治時代からでした。
 記述が前後しましたが、明治時代以前、つまり江戸時代などの日本人は馬の去勢の知識は皆無であったかと言えばそうではありません。去勢の知識としては、何度か諸外国から導入されており、中国から伝来した馬医書『馬経大全』に去勢術の記載があり、また去勢した馬「扇(セン)馬」の記載もあります。また8代将軍・徳川吉宗治世に来日したオランダ調教馬師ケイゼルの知識をまとめた『西説伯楽必携』や菊池東水が1852 年に発行した『解馬新書』に、西洋の馬去勢術が記載されています。つまり馬の去勢術は知識として、少人数ながらも当時の日本人は有していながらも去勢を定期的に行っていなかった事になります。この根底にあるのは何か・・・。それはやはり、武士という階級が始まった以来の思想、「気性の激しい馬に乗ってこそ本当の馬術」が、当時の権力者(武士)あったから馬の去勢するのは気おくれしたと、(筆者個人の考えですが)思われてなりません。
 極稀な例外として、馬の去勢を行った記録も実はあります。江戸前期・武蔵川越(現・埼玉県川越市)の豪商・町名主・榎本弥左衛門(1625〜1686)が記した「榎本弥左衛門覚書」では、1656年に川越城内にある厩舎で、気性が激しく、人を踏みつけたり・噛み付く荒馬4頭の去勢を行い、結果大人しくなったという記述があります。これが日本初公式の馬の去勢だと伝わっています。他にも1809 年頃に仙台藩、1855 年にも佐倉で馬の去勢してその効果を認めたとの記録があります。しかし重複しますが、これらは皆、極めて珍しい例であった事は間違いなく、明治時代以前の日本では、馬の去勢術の知識を有していながら、去勢を行っていませんでした。

 

 日本に馬の去勢を浸透させたのは、明治政府のお雇い外国人教師で獣医師、後に第9代駐日米国特命全権公使である米国人・エドウィン・ダン(1848〜1931)です。彼は北海道畜産業の基礎を築いた功労者の1人ですが、その中でも特記すべき事は、『日本国内に馬の去勢術』を広めた事であるかもしれません。士族(旧武士)階級では、「悍馬に乗りこなしてこそ馬の乗り手の一人前」という思想が未だ強く残っており、「去勢によって気性の悪い馬を温和にする」という昔から西洋をはじめとする諸外国では一般的な手法であったのを採用したダンの指導は困難を極めたそうですが、当時の日本随一の馬術師であった日本陸軍軍人・函館大経(旧名・斎藤義三郎 1847〜1907)の理解を得られて、馬の去勢は日本国内に浸透していきました。
 日本が本格的に馬の去勢に取り組むようになった起因は、当時の中国大陸を支配していた清王朝との戦争・日清戦争で、外国人(恐らく観戦武官や従軍記者)から「日本の馬は猛獣である」と酷評を受けた事や、1900年にに中国国内で勃発した排外運動・義和団の乱(北清事変)で日本陸軍騎兵が外国軍騎兵と軍事行動を共にした折に、日本軍側の記録に『わが国(日本軍)の出征軍馬のみは,素質獰猛であり,牝馬を見ては隊列を乱し,輸送に当たっては兵を傷つけ,実に苦心を要するものがあって,各国兵から軽蔑嘲笑を受けた』という点であり、当時の日本は列強各国に追い付こう必死になっている時期であり、諸外国の軽蔑を病的に嫌っていたので、日本の馬のマナー(気性)の悪さによって侮辱を受けた事は、日本政府にとって相当ショックであったと同時に、それ以降、日本国内の馬の去勢が普及した事は間違いないです。 

 

 以上、今回は「日本の馬の去勢史」というべき事に特化して執筆させて頂きましたが、次回は日本より遥か昔から馬の去勢が行われていた諸外国の去勢史を執筆したいと思っております。