馬を愛したの貴族、そして天皇たち。

 今記事の表題を「馬と生死を共にした日本の偉人たち」という、何とも大仰な名にしてしまいました。実は、筆者が、この様な題名で記事を書くことになった動機の1つに、〜何とも物騒である上、当事者たちの名誉に関わる話ですが〜「落馬が死因」という日本の偉人3名を前々から知っていおり、この事を少し記事に書いてみたいという気持ちがあったからであります。因みに、この3名のお歴々のご職業は、時代は違えども、「武士」であり、その内の1人は、日本人なら誰でもが知る、一時代の構築者であると当時に、学校の歴史の教科書に必ず載っている程の有名人ですが、寧ろテレビドラマなど創作の世界では、彼自身からしてみれば、極めて不名誉ですが、悪役として描かれる事でも有名な偉人であります。兎に角にも、武士でありながら、はからずも落馬事故死してしまった上記の3人物については、少し後述させて頂きます。

 

 世間一般のイメージでは、「馬は武士のみが騎乗していた」と思われる事がありますが、実は、小難しい歌を詠んだり、牛車ばかり乗って、ゆっくりと都を練り歩くイメージが強い公家(貴族)も、馬に乗っており、彼らの中にも、馬を愛し、現在で言う「名騎手」と呼ばれる人物も存在しました。
 他の記事でも何度か紹介させて頂いた「流鏑馬(騎射術)」や「鷹狩(狩猟)」、騎手の乗馬技術や作法を競う「競馬(きそいうま・駒競(こまくらべ)とも言う)」など武術は、武士のみが行っていたと思われがちですが、先述の武術は全て、朝廷、それに連なる高級貴族(摂関家など)が行っていた宮中イベントの一種でした。因みに、上記の競馬では、貴族たちが未去勢・未調教の荒々しい馬を乗りこなし、足の速さを競ったりしていたと言うので、脆弱なイメージを持たれがちの貴族の皆様も、中々勇敢でありますね。

 

 摂関政治の代表格で、歴史の教科書に載るほど有名な貴族・藤原道長も、国政の中枢に就く前の若年の頃より、弓術や馬術を好み、私的に競馬をよく行っていたと伝わり、絶大な権勢を握った後は、自邸に天皇に行幸を賜って、競馬を開催し、自己の権威アピールをしています。
 道長の時代を下り、武家の源平が歴史の表舞台に台頭し始めた平安末期の公家・藤原忠隆という器量人も、馬術の名人として、当時より有名でした。彼の四男である信頼と対立関係となった信西(藤原通憲)も、忠隆の優れた馬術や器量を自著内で賞賛しています。
 武士と貴族の闘争期である南北朝争乱期(室町前期)でも、南朝(後醍醐天皇)側の中心人物である、戦う貴族(国司)の北畠親房・顕家親子は有名ですが、特に息子の顕家は、若年ながら後醍醐天皇から請われて、古代から馬の産地として有名な奥州(東北)地方を統括する鎮守府将軍に任命され、足利尊氏(北朝のリーダー・室町幕府初代将軍)が南朝に叛乱を起こした際は、強豪の奥州人馬を率いて、尊氏軍を撃破しました。この頃の顕家軍は、半月で、約600kmを超える道程(東北から滋賀)を行軍するという、神懸り的な記録を達成していますが、これには優れた奥州の軍馬の力が背景にあったに違いありません。また顕家自身も、先述の強行軍を行える程の馬術を持っていた事を窺わせます。
 織田信長が台頭した戦国期(室町後期)の馬術に通暁した貴族には、傑物・近衛前久います。彼は、公家の最高職である関白・太政大臣を歴任し、有職故実・和歌・書道などに通じる一流の教養人であると同時に、公家の権威をバックボーンとした名外交官としても活躍。信長や上杉謙信、徳川家康など当時の戦国英傑と親交を持ち、特に同年代の信長とは、馬術・鷹狩りという共通の趣味を通して、仲が良かったと言われています。

 

 乗馬がお得意であったのは、貴族だけには留まりません。日本のシンボルでもある歴代の天皇家にも名馬術家はおられました。
近代では、明治天皇・昭和天皇の両陛下も旧日本陸海軍を統括する大元帥として、特に乗馬の修練を積まれ、御腕前は優れておられた事も有名ですが、武士が東国に武士政権(鎌倉幕府)が誕生し暫く後、その武士たちに戦い(承久の乱)を臨んだ豪胆な後鳥羽上皇も、和歌・武芸に秀でていたことは有名ですが、その中でも乗馬・弓術の腕前は超一級であったと言われています。

 

 以上、ほんの一部の天皇家や公家の乗馬に関する逸話を紹介させて頂きました。牛車ばかり乗り、歌を詠うなど、従来の大人しいイメージとは違う、荒々しい馬に果敢に乗り回す様な人々がいた事がわかります。彼もまた武家と同様に、馬と共に生きた人々なのです。

花開く、日本の馬術流派

 先までは、天皇・貴族(公家)と馬の密接な関係を述べさせて頂きましたが、ここからは武士と馬について紹介させて頂きます。

 

源平合戦や戦国時代を扱った時代劇(大河ドラマなど)の見せ場となる合戦場面では、必ず騎馬武者が登場し、疾駆して敵陣に斬り込むシーンがあります。「脚色」があるにせよ、その折の騎馬武者たちは、とても格好良いものであり、視聴者を少なからず興奮を覚えるものであります。筆者もその中の1人であり、1991(平成3)年に放映されたNHK大河ドラマ・太平記のOPシーンで、真田広之さんが演じる主人公・足利尊氏(高氏)が、自らも馬上の人となり、10頭程の騎馬武者を従えて此方に駆足で突撃してくる描写には、何とも言えぬ高揚感を覚えたものであります。

 

 上記の様に、現代の時代劇で登場する武士達と馬とは切っても切れない間柄ですが、史実でも武士と馬は、密接な関係でした。合戦場までの移動手段として役立ち、平時には武家身分の象徴(ステータス)、高級ブランド(贈答品)として重宝され、馬は武士の生活ともに在り続け、大袈裟に言えば、『馬は武士の相棒』でもあったのです。

 

 鎌倉期の関東武士が行った弓馬武術は、「流鏑馬」「笠懸け」「犬追物」という騎射三物が中心であり、これは飽くまでも本番(合戦)に備えた武術鍛錬でした。また源頼朝が関東武士団を総動員して、1193年に開催した一大イベント「富士の巻狩り」を例にとって見てもわかる様に、これも本番に備えた訓練が目的の一つでした。つまり鎌倉武士の馬術は、実戦に備えての鍛錬のみに特化した物であり、そこから粋な芸術が誕生するという優雅な物ではありませんでした。

 

 馬術が文化芸術として開化するのは、関東武士の末裔(足利尊氏)たちが、時の首都・京都に本拠を遷した室町時代からになります。無教養で田舎臭い東から来た武士たちが、天皇・貴族によって長年洗練された京文化に触れる事によって、武術全般(馬術)を『美しく魅せる芸術文化(武家故実・弓馬故実)』として徐々に昇華させていったのです。
 作家の司馬遼太郎先生は、自著『この国のかたちV』で以下の様に述べられています。

 

『私どもは、室町の子といえる。(略)こんにちでいう華道や茶道というすばらしい文化も、この時代を源流としている。能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば日本風の行儀作法や婚礼の作法も、この時代からおこった。私どもの作法は室町幕府がさだめた武家礼式が原典になっているのである。(略)総合して室町の世は後世への大きな光体であった。』

 

 上記の司馬先生の文は、残念ながら馬術の事は書いておられませんが、筆者が先述した通り、日本の馬術流派の起源も室町時代になります。その中で良く知られているのが、大坪慶秀が開いた『大坪流馬術』、その大坪流馬術を学んだ荒木元清を開祖とする『荒木流馬術』などが挙げられます。そして、上記の2派の馬術の大本が、小笠原貞宗を始祖(諸説あり)とされる『小笠原流弓馬術礼法』があります。現在でも、小笠原家から誕生した武家礼法は、茶道・弓道など多岐に亘り、受け継がれており、馬術(流鏑馬)も小笠原教場によって代々継承されています。

1頭の名馬が一大内乱の原因に?

 表題が物騒な名前ですが、1頭の名馬が原因で日本が二分された源平争乱の発端になった逸話が、軍記物『平家物語』に載っています。

 

稀代の傑物・平清盛が、平治の乱で宿敵の源氏勢力を倒し、京都・福原(現在の神戸市)や中国地方を基盤として絶大な権力を把握して、「平家にあらずんば人に非ず」と謳われていた折、清盛の3男・平宗盛が、父の権威を傘に、平氏に従属していた源仲綱が所有していた名馬「木の下」を強引に奪いとった挙句、その木の下を「仲綱」という名前を付け、馬の尻に仲綱烙印まで押し、多くの客人の面前でその名馬というわれる「仲綱」を散々虐めて、仲綱本人を侮辱しました。
 当然、源仲綱は、この宗盛の仕打ちに激怒。父・頼政と共に、かねてより平氏の治世に不満があった皇族・以仁王(もちひとう)を旗頭として、京都宇治川にて平家に反旗を翻しました。結果的に、頼政・仲綱父子の反乱は失敗し、両人は戦死しますが、これが起爆剤となり、東日本に割拠していた源氏勢力が一斉に平氏に対して決起しました。即ち、信州の源(木曽)義仲、奥州の源義経、そして関東武士団の旗頭となった源頼朝が歴史表舞台に登場し、遂には平家を壇ノ浦で滅ぼし、江戸時代まで続く武家政権を築く事になります。

 

 この平宗盛の源仲綱の名馬強奪事件の出典は、先述の如く、有名な軍記物『平家物語』であり、物語内では、平宗盛を傲慢で無能な坊ちゃま武将の完全な悪者として描かれてしまっているので、名馬強奪事件の真意は定かではありません。筆者個人としては、完全に小心傲慢の救いようが無い人物設定にされてしまっている宗盛が、流石に可哀想と思ってしまいます。これも偉大な創業者(清盛)の跡を継ぎ、自分の代で一族を滅ぼしてしまった2代目(宗盛)の宿命と言ってしまえば、それまでですが。

 

 筆者個人の宗盛に対する感情は余談として、敢えて平家物語内の名馬強奪事件を拠り所に考察させて頂くと、1頭の馬の存在が発端の1つとなり、最終的に関東で源頼朝が歴史の表舞台に誕生し、その後、約700年も続く長大な日本独自の政権と言うべき武家政権が誕生した事が、不思議なものであります。
 そして、最初に朝廷から完全独立した武家政権を築いた旗頭・頼朝が馬から落ちて死んでしまうのも不思議なものを感じてしまいます。

落馬事故死してしまった3人の武士たち

 現在でも落馬事故は、大事です。高い馬の上から硬い地面に落ちてしまっては、とても危険です。近年で、日本でも有名になった大きな落馬事故は、1995年5月米国バージニア州で、映画「スーパーマン」の主演で有名な米国俳優・クリストファー・リーヴ氏が落馬事故に遭い、脊椎損傷で首から下の全身麻痺となり、2006年12月には、カタール国の首都ドーハで開催されたアジア競技大会の総合馬術競技で、大韓民国の馬術選手・キム・ヒョンチル氏が落馬し、馬の下敷きになり亡くなるという落馬死亡事故がありました。誠に落馬事故は、恐ろしいものであります。

 

 インターネットの百科事典ウキペディアでは、落馬の項目もあり、何とご丁寧な事に、『落馬事故で死亡した歴史上の人物』というカテゴリ欄も掲載されています。それを閲覧してみると、世界の古今東西を問わず、知られているだけでも全部で66人という結構な方々が落馬事故死しています。そして、その66人の内、日本人では18人が落馬事故で亡くなってしまっていますが、その中で特に筆者が目を惹いたのは、『佐竹義重』『十河一存(そごうかすまさ)』という日本戦国史に精通している方ならご存知な戦国の名将2人、残りの1人は、学校の歴史授業で誰もが知る武家政権の創始者『源頼朝』です。
 『今更過ぎた事を掘り起こすものではない!』と上記のお歴々が黄泉の国で渋面をつくっておられるかもしれませんが、今記事では、不幸にも落馬事故死してしまった『源頼朝』『佐竹義重』『十河一存』の3人物(武家)について少しだけ紹介させて頂きたいと思っております。

 

@源頼朝(1147〜1999)
誰もが知る日本初の武家独立政権「1192(イイクニ)つくろう鎌倉幕府」の創始者です。そして、彼の異母弟で、「判官びいき」で悲劇的天才ヒーローで有名な源義経を死に追いやった悪名高い人物としても有名です。
頼朝・彼の妻・北条政子、その弟・北条義時を主軸に関東武士団の群像を描いたNHK大河ドラマ(第17作)「草燃える」の原作者である作家の永井路子先生は、頼朝を『関東武士団の旗頭の役目を忠実にこなし、人事のバランス感覚に富んだ、組織の使い方が上手い人物』というような意味を述べておられます。
 確かに、源平争乱の第1ラウンドと言うべき平治の乱で敗れ、罪人(流人)として伊豆国・蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市)に配流されて以来、周囲に身内・家来も少なく、財産も無い頼朝が、他人で自分より遥に勢力を持ち、自我(フロンティア精神)が非常に強い関東武士団たちを束ね、遂には独自の武家政権を東国に創り上げるという一大事業を成し遂げたのは、頼朝が相当な人物であった事は間違いないでしょう。後年、江戸幕府を創設し、250年にも続く平和な時代を創った徳川家康も、頼朝を尊敬し、彼の組織創り・使い方を模倣したという事を見ても、頼朝の偉大さがわかります。

 

 人材の活かし方・組織の使い方の上手く、全武士の頂点である征夷大将軍になった頼朝の死因は、落馬事故でした。因みに彼の死因については、色々と諸説がありますが、「吾妻鏡」(鎌倉幕府の公式記録書)では、相模川に架けてあった橋の落成式に出席した後の帰路で、落馬したと伝えてあります。落馬する前に、卒中などを起こし、それが原因で落馬したという説もあります。兎に角にも落馬してから17日後に、頼朝は死去しています。日本史に大きな足跡を残した大人物にしては、何とも哀れであっけない死に方に感じられます。

 

A佐竹義重(1547〜1612)
 戦国時代がお好きな方には、お馴染の人物と思いますが、世間一般ではあまり知られていない人物だと思います。佐竹義重は、常陸国(現・茨城県)の戦国大名・佐竹氏18代当主です。佐竹氏は、@源頼朝と同族の源氏一族の末裔と伝えられ、古くから関東の常陸国に一大勢力を張っていた名族です。
 18歳で佐竹家当主になった義重は、優れた政治力(統治力)を生かし、領内にある金山経営に着手して豊富な軍資金を得て、強力な軍事力を構築してゆきます。(この点は、同じ源氏一族の戦国大名・武田信玄と似ています)強力な軍事力を生かして、義重は各地を勇戦奮闘、豪族・小田氏、小田原北条氏、奥州の伊達氏といった強豪と戦い、勢力を拡大してゆきました。その義重の抜群の知勇振りに、「鬼佐竹」「坂東太郎」という異名で以って、周囲の戦国大名から畏怖されました。しかし、それ程の武勇を讃えられた義重も、最期は、狩猟中に落馬事故死してしまいます。戦場の鬼も、拠る年波に負けて落馬してしまったのでしょうか?享年66歳。

 

 実は、義重には面白い逸話が2点あります。1つ目は、何故か敷布団の上で寝る事を好まず、就寝の際はいつも薄い布を敷いていた、という事と、現在でも有名な秋田美人の原形を築いたのは、実は義重であったというのです。佐竹氏は、先述のように、代々関東の常陸国に本拠を置く勢力でしたが、徳川家康と石田三成が戦った関ヶ原の合戦の際に、義重の息子で、当時佐竹氏の当主であった義宣が、曖昧な中立姿勢をとったために、佐竹氏は、関ヶ原の勝者・家康から代々の本拠地・常陸国(54万石)から北出羽国(20万石、現・秋田県)に異動させられました。つまりは、左遷減俸されたのです。
 その腹癒せかどうかはわかりませんが、義重は常陸国中の美女を集め、秋田へ連れ伴ったため、この常陸美女集団を先祖する秋田女性が、「秋田美人」になり、一方、醜女(しこめ)が残された茨城は、美人が少なくなってしまった。という面白い言い伝えがあります。茨城県人の女性の皆様、怒らないで下さいませ。飽くまでも根拠が無い、言い伝えでございます。

 

B十河一存(1532〜1561)
こちらの人物も、あまり世間では決してあまり知られていない人物ですが、Aの佐竹義重とほぼ同時代の戦国武将の1人であり、名前を十河一存(そごうかずまさ)といいます。義重は関東で活躍した人物であったのに対し、一存は四国・近畿で活躍した名将です。
 一存は、四国の阿波国(現・徳島県)で強い勢力を保持していた三好氏の出身であり、後に讃岐国(現・香川県)の豪族・十河氏の養子となり、彼の長兄である三好長慶を軍事面で援けて、数々の合戦の勝利に貢献、本家・三好氏の勢力は畿内にまで及び、暫定的ながらも京都を制圧し、天下人に近い存在までになりました。一存のその活躍ぶりは、周囲から「鬼十河」と呼ばれ畏敬されました。
 その鬼十河一存も、諸説はありますが、死因が落馬であったと言われています。1561年、一存は軽い病に罹り、古代から有名な名湯・有馬温泉に湯治に行き、病が快方に向かった折、有馬権現に、葦毛(白色)の馬に乗って参詣しました。その道中、同じ三好家の有力家臣であった策略家・松永久秀(通称:弾正、戦国三大悪人として有名)に出会い、久秀から「有馬権現様は、葦毛は好まないため、馬から降りて行かれた方が良いでしょう』と一存に(余計な)忠告をしたらしいです。
 実は、同じ三好家の重鎮ながら一存は、大の久秀嫌いであり、先の(一存からしてみれば)余計な忠告を無視し、続けて葦毛の馬に乗って参詣へ向かった所、果たせるかな一存は落馬、その傷が原因で死亡したと言われています。享年30歳。油断大敵、幾多の死線を越えてきた猛将・十河一存、己の馬術の腕を過信し、思わぬ最期を招いてしまった感があります。意地の悪い見方をすると、野心家で謀才に長けた久秀が、三好家中での自己勢力拡大を目指すため、邪魔な一存をわざと怒らせ、意地でも葦毛の馬に乗らせ、落馬させたという、密かな「殺人示唆」になりますが、果たして真相は如何なものでしょうか。些か出来過ぎた話と筆者は思ってしまうのですが。兎に角にも、一存の夭折が、三好本家の衰退の一因となり、後に濃尾地方から進出してきた織田信長に京都を制圧され、三好本家は天下取りレースから脱落してしまいました。大袈裟な言い方をさせて頂ければ、1人の名将の落馬事故死が、天下の勢力図の大きな転換点になってしまったのです
 因みに、一存の髪型(月代を深くそった髷型)は「十河額」と言われ、後年の江戸時代の徳川家直臣旗本(小普請組)の相続権が無い、次男・三男の部屋住み侍が、猛将・一存にあやかりたいという願いから「十河額」が、彼らの間で大流行した逸話が残っています。羨望の人(人気アイドルや俳優)などの髪型やファッション(素振り)などを、大衆が真似したがるという風潮は、どうやら古今問わず同様であるらしいです。

 

 以上、死因が落馬事故であったと伝わる3人物を少し紹介させて頂きました。職業柄、馬を乗る事が仕事の一環であり、乗る事も多かったであろう武士の皆様。上記の3人(特に義重と一存)の様に、大将として馬で戦場を駆け巡り、馬に乗り慣れた人達でも、落馬事故を起こし亡くなっているのです。
 『孔孟筆の誤り』という至言や頼朝を私淑し、佐竹義重・十河一存亡き後、天下を掌中におさめた徳川家康も、『真の馬達者は、危ない乗り方はしないものだ』という金言を遺しています。我々現代日本人は、本当の馬に乗り操る機会は少ないですが、筆者を含め日々「鉄の馬(自動車や自動二輪)」には乗り運転する事は多いと思いますので、これらを乗りこなす場合は、己の運転術を過信せず、安全に乗りこなしてゆきたいものであります。