騎馬武者は形式主義、騎兵は機動力主義

 日本の騎馬武者の事、それによって構成される騎馬隊(軍勢)について説明や考察させて頂いた記事(騎馬武者と騎馬隊)内で、騎馬武者(武家)世界では、テレビ時代劇の合戦シーンで見かけるような大規模な専一騎馬隊の存在はフィクション(非現実的)であり、実際は、騎馬武者(武士)と足軽(武士の子分・郎党たち)で構成された部隊が主力でした。我々が映像の世界で観ている大規模な騎馬隊というのは、近代軍隊で言う『騎兵隊』に当たり、日本でその類の部隊が漸く歴史の表舞台に登場するのは、幕末・明治時代以降になります。

 

 騎兵の最大の強みは『機動力』にありますが、源平争乱期〜戦国期に登場した騎馬武者は「機動力」を生かし、敵と戦ったという実例は少なく、騎馬武者という存在は「(高級な)身分を示す象徴」でした。そして、合戦(特に源平期)では互いに一騎で戦い合う『一騎打ち』が主流となります。この一騎打ちという後世の我々にも何やら華やいだイメージを掻き立てる決闘は、騎馬武者たちのみに許された特権であり、「武士の名誉を尊重し、卑怯な手を用いず、一対一で正々堂々華々しく戦おう」という形式儀式でした。
 つまり、騎馬武者という存在は、「優れた機動力」という合理性を活かして戦うというより、「武士」を合戦場で華やかせるための「形式物」というのが第一理由でした。形式主義を軽視し、「機動力」を尊重するのは、それは最早。騎馬武者では無く、「騎兵」の部類に入ります。
 日本中世期で、騎馬武者を「騎兵」として上手く転換利用した人物を挙げるとするならば、それは源義経のみかもしれません。「鵯越えの奇襲(一の谷の戦い)」で、義経が実施した作戦「機動力に優れた騎馬武者のみを引き連れ、敵陣(平氏軍)奥深く潜入し、背後の谷から奇襲を行った」は、騎兵の最大の強み「機動力」を活かし切った戦法でしょう。義経が、後世まで「戦の天才」と謳われるのは、騎馬武者を戦場の華として観賞していたのではなく、彼らの脚の速さを生かし戦うという、合理的に転用した戦術を実施したからです。
 余談ですが、この義経の騎兵襲撃作戦の鵯越えの奇襲の折に、義経軍に配属されていた関東武士の中に、畠山重忠という怪力人物(作家の永井路子さんは、鎌倉武士のミスター・桃太郎と評しています)が、急な坂を下る際、自分の馬が怪我をしないようにと、重忠は下馬して、何と馬を背負い、歩きながら下りたそうです。何とも言い様の無い話ですが、実際その場面を再現した像が、彼の所縁の地である埼玉県深谷市にあるのも事実なのですから面白くもあります。先出の永井先生は、戦前の教科書にも、普通に重忠の馬背負いの逸話が掲載されていたと著書にも言われています。万々一、この逸話が本当(絶対有り得ない話ですが)だとしたら、馬を背負いながら、ノロノロと坂を下ってゆく重忠を部隊長の義経が見たら、奇襲部隊の機動力を削ぐ行為として激怒したに違いありません。

 

 義経の合理的な戦術思考は、後々の彼自身の悲劇となってしまったのも、また事実でした。義経と共に平家と戦った騎馬武者(義経の兄・頼朝の御家人・関東武士団)たちは、あくまでも騎馬武者を「戦場の華」として捉える形式主義者であり、義経の作戦原理を理解するどころか、「無謀」として反発をしました。この最たる好例が、大将・源義経と参謀(当時は軍監)・梶原景時との対立でしょう。この対立が、有名な義経の悲劇ストーリーの重大要素の1つであり、義経は平家滅亡後、兄・頼朝から迫害される身になってしまいますが、今記事ではこれは関係無い話ですので、以下は割愛させて頂きます。

 

 兎に角にも、源義経が、日本では極めて珍しい騎兵運用者であったのは事実です。五条大橋で弁慶との対決、壇ノ浦での八艘飛び、兄・頼朝との悲劇的な対立と、有名な逸話に事欠かない義経ですが、その中での有名な伝説は、義経は、奥州平泉で非業な死を遂げず、中国大陸に渡り、世界史上最大の帝国を築いたモンゴルの英雄・チンギス・ハーンになった、という説があります。遥か後世の明治時代の在英日本人が、自分の民族が如何に偉大であったかを周囲に誇張するために、「義経=チンギス・ハーン」説を騒ぎまわったのが真実だと言われていますが、その噂の対象にされてしまったチンギス・ハーンは、義経を遥か上回る騎兵の天才でした。

騎兵軍団が世界を制圧、モンゴル騎兵団の登場。

 騎兵隊の真骨頂は、騎馬兵のみを部隊化(集団化)にし、槍隊や弓隊など他の部隊より格段に優れた機動力を生かし、敵の偵察・奇襲(後方攪乱)などが挙げられます。世界騎兵史上、その長所を活かして、各国の農耕民族国家に脅威を与え続けた「騎馬民族(遊牧民)たち」であり、その筆頭が、世界史上最大の勢力(モンゴル帝国)を築いたチンギス・ハーンが統率したモンゴル系民族(蒙古)です。
 モンゴル系族という東西の遊牧民の筆頭と言うべき騎馬民族こそは、日々馬で大地を疾走する乗馬術と弓矢で獲物を仕留めるための騎射術を最大限に活かした最強の騎兵集団です。彼らは、戦闘装備にも工夫を凝らしており、馬に過度な負担を掛けずに、疾走できるように鎧兜も軽装にしていました。そして、何よりも自分たちの優れた戦闘力の根本を成す資源『軍馬』を潤沢であった事も、見逃せない事です。モンゴル騎兵1人当たり、常に約5頭以上の軍馬を戦場に替え馬として連行していたそうです。そればかりではなく、戦闘時になっても、騎兵達は、その連れて来た替え馬を後方などに留め置かず、何時でも直ちに替え馬に乗り換える為に、一緒になって戦場を駆け巡っていたというのですから、騎射にも優れ、沢山の軍馬頭数を持っているモンゴル騎兵部隊に襲われた農耕民族(帝国)は、恐れ戦いたに違いありません。
 筆者が、モンゴル騎兵の超人的な技術に対して一番瞠目したのが、彼らが替え馬に乗り換える際には、今まで自分達が騎乗している馬から一々下馬せず、疾走状態(約時速60km)から、隣で一緒の速度で駆けている新しい馬に乗り換える。というスーパーアクロバット術を全員会得していた事です。これが可能であれば、騎兵最大の強みである機動力を削ぐ事なく、最速で目的地へ到達できます。孫子の兵法で、「兵は拙速を尊ぶ」という似た意義を主張していますが、その最優秀模範生というべき存在が、モンゴル騎兵でした。因みに、現在でもモンゴルを棲家としている遊牧民の人々も、モンゴル騎兵が会得していた上記のアクロバット的な技術が代々受け継がれ、これが出来たら一人前として認められるそうです。全く凄まじい民族集団でございます。

「日本騎兵の父」と呼ばれた人物

 チンギスハーン率いるモンゴル騎兵大集団が世界を蹂躙する殆ど同時期(12世紀後半〜13世紀初頭)の日本では、長い期間、京の都で栄華を誇った貴族社会が崩壊し始め、関東を中心とした東国から武士が歴史の表舞台に登場した頃でした。即ち武士の華・合戦と一騎打ちが栄えた源平争乱期です。
 日本海を隔てた中国大陸では、騎兵が猛威を奮っていましたが、日本は、残念ながら様々な地理的環境(国土が狭い上、山岳地が多い)、何よりも『国内に馬頭数が少ない』という最大原因などが重なり、先述の世界を震撼せしめたモンゴル騎兵部隊に類似した軍団が育みにくい国でした。よって、戦闘集団である武士でも騎馬を持ち、騎乗できるのは、大名(領主、大将級)などの高級武士のみでした。その騎乗できた高級武士の間でさえ、(織田信長のような有名武将は別格として)、モンゴル騎兵団の如く、一兵卒が何頭も替え馬を所有していた人物も少なく、平均的に1頭ないし2頭のみの騎馬しか所有していなかったのではないでしょうか。
 この様な現状では、騎兵の最大の強みである「機動力」を発揮する前に、重厚な鎧兜を着用している武士(この点もモンゴル騎兵の軽装備とは全く異にしています)を乗せている軍馬が参ってしまいます。その上、替え馬がいない。これでは日本では騎兵が育つはずも無く、騎兵集団の運用法などが発達する環境ではありません。この点は、後々まで緒を引き、西洋軍隊を模倣して、江戸幕末・明治時代の政府が自国の騎兵団を含める近代軍隊を構築する際に、それに関与した当事者たち(つまり軍隊上層部)は騎兵の編成・運用方法について理解に苦労したそうです。
 上記の問題解決に着手し、日本騎兵の発展に貢献したのが、小説「坂の上の雲」の主人公の1人である陸軍軍人・秋山好古でした。彼は、古くから西洋騎兵の古巣というべきフランスに留学し、そこで騎兵の運用法を学び、帰朝後、フランスで学んだ知識を生かしつつも、日本に適った騎兵団を苦心しながら創設してゆきました。この好古騎兵団は、帝政ロシアとの戦い(日露戦争)で、騎兵の「機動力」を生かし、敵勢偵察・敵地奇襲・後方攪乱(専門用語でいう「挺身騎兵戦法」)を実践、苦戦しながらも活躍しました。以上の活躍もあり、好古は「日本騎兵の父」と尊称されています。
 余談ですが、好古は晩年、日本陸軍の最高階級の「陸軍大将」まで昇進したにも関わらず、地元・愛媛県松山市にあった無名の中学校の校長に赴任。5年間勤勉に務め上げましたが、その期間中、彼は、決して自分が生涯を賭けて築き上げた騎兵団や日露戦争での功績を誇る事は無く、事ある毎に、『酪農(牧畜)の奨励』を主張していました。この詳細は、別記事「日本近代酪農に貢献した2人の日本軍人」で書かせて頂いておりますので、もしご興味のある方はご一読して頂ければ嬉しく思います。